哲学で日常生活に彩りを――カミュと歩く退屈な午後
「毎日が同じことの繰り返しで、なんだか退屈だな」と感じることはありませんか?
朝起きて、仕事して、帰って寝る。休日にはスマホをいじって、動画を見て、気づけば夕方。
そんな時、私はいつもカミュを思い出します。
アルベール・カミュ――彼は、20世紀フランスの作家・哲学者で、「不条理」という言葉で有名です。けれど、その「不条理哲学」は、むずかしい理屈ではなく、実は私たちの退屈な日常に、ちょっとした彩りを加えるヒントをくれるのです。
「人生は不条理だ」とカミュは言った。でも、そこで終わらない。
たとえば、代表作『異邦人』の主人公ムルソー。彼は母の死にも涙せず、日差しのまぶしさだけで人を撃ってしまう。なんだか感情のない人間のようにも思えますが、カミュはこのムルソーに「不条理な世界をそのまま受け入れた人間像」を重ねています。
つまり、「意味のない世界でも、無理に意味づけしないで生きてみる」ということ。
そして、それは私たちにも通じます。
意味を探しすぎて疲れていませんか?
やりがい、生きがい、自己実現…。
ときには、「理由なんてないけど、コーヒーがうまい」とか、「夕方の空がきれいだったから、それで良し」とする。
それで十分じゃないか――と、カミュは語りかけてくるのです。
「シジフォスの神話」からのヒント
カミュのもう一つの有名な著作に『シジフォスの神話』があります。
岩を山頂まで転がし続けるが、また転げ落ちる。それを延々と繰り返すシジフォスの姿に、人生の不条理を重ねている。しかしカミュは、「我々はシジフォスを幸福な人間として想像しなければならない」と言います。
えっ?それで幸せ?と驚くかもしれません。
でもよく考えてみてください。
私たちも日々、同じような作業を繰り返して生きています。
洗濯、掃除、仕事、通勤、育児…。
だけど、その「繰り返し」の中で、笑ったり、誰かと話したり、ちょっとした工夫をしてみたり、そういう小さな選択こそが「生きる」ということなんじゃないでしょうか。
日常は「意味」ではなく「味わい」から始まる
哲学は、真理を追い求めるものですが、カミュの哲学は「意味のない世界にどう立つか」を問います。そして、その答えは案外シンプルです。
**「人生に意味を与えよ」ではなく、
「意味がなくても、自分なりに味わえ」**という姿勢。
だから私は、カミュに倣って、日常に「意味」を求めすぎないようにしています。
雨音をBGMに仕事してみる。
スーパーの特売品にちょっと感動する。
ベランダで空を見ながら、缶コーヒーを開けてみる。
これだけで、世界が少し違って見えることがあります。
最後に
カミュは、哲学の言葉で、私たちにこう囁いているのかもしれません。
「不条理なこの世界に、どうかあなた自身のリズムとユーモアを忘れずに。」
哲学は、重たいものではなく、日々の景色にそっと光を差すレンズです。
どうせなら、ちょっとカミュを連れて、今日の午後を歩いてみませんか?
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